俳優の山田裕貴さんの父親は、元プロ野球選手の山田和利(やまだ・かずとし)さんです。中日ドラゴンズと広島東洋カープで内野手などとしてプレーし、引退後も両球団でコーチを務めた野球人でした。2025年8月26日には、裕貴さんが父の死去を公表。和利さんは同月16日に60歳で亡くなっていたこと、約4年前からがんの闘病を続けていたことが明らかになりました。
一方、親子の関係を知るうえで見逃せないのが、裕貴さん自身が語ってきた野球少年時代の挫折と、俳優を目指すようになった経緯です。父への憧れ、プロ野球選手の息子として感じた重圧、そして俳優になってからも続いた父との交流。2026年10月時点で確認できる報道や日本野球機構(NPB)の公式記録をもとに、山田和利さんのプロフィール、現役成績、コーチ歴、訃報の経緯を整理します。
【結論】山田裕貴の父は元プロ野球選手の山田和利さん

山田裕貴さんの父親は、1965年6月3日生まれ、愛知県出身の元プロ野球選手・山田和利さんです。東邦高校から1983年のドラフト会議で中日ドラゴンズに4位指名され、プロの世界に進みました。
現役時代は中日ドラゴンズ、広島東洋カープの両球団でプレー。俊足を生かしたプレーに加え、広島移籍後には打撃でも存在感を示しました。1996年に現役を退いた後は指導者として球界に残り、中日と広島で選手育成などに携わっています。
息子の裕貴さんは、映画やドラマ、テレビ番組など幅広い分野で活躍する俳優です。父と同じプロ野球選手を目指した時期がありましたが、中学時代に野球を断念。その後、自分で選んだ道として俳優業に取り組むようになりました。
2025年8月26日、裕貴さんは自身のSNSを通じて父の訃報を公表しました。日刊スポーツ、スポニチ、TBS NEWS DIGなどの報道によると、和利さんは同月16日に60歳で亡くなり、葬儀は近親者のみで執り行われました。
この訃報によって改めて注目されたのが、裕貴さんがこれまでテレビ番組やインタビューで明かしてきた父との思い出です。父の背中を追った少年時代と、俳優として歩み始めたきっかけには、深い親子のつながりがありました。
【プロフィール】山田和利の経歴は?東邦高校からプロ入り、現役引退まで
山田和利さんは、愛知県の東邦高校で野球に打ち込み、1983年のドラフト会議で中日ドラゴンズから4位指名を受けました。プロ入り後は俊足を持ち味とする内野手として経験を積み、1991年に広島東洋カープへ移籍しています。
日本野球機構の個人年度別成績やプロ野球関連の報道をたどると、和利さんのキャリアは中日での若手時代、広島での打撃面の飛躍、そして古巣への復帰という流れで整理できます。
山田和利の基本プロフィール公表されている主なプロフィールは次のとおりです。
- 氏名:山田和利(やまだ・かずとし)
- 生年月日:1965年6月3日
- 出身地:愛知県
- 出身高校:東邦高校
- 投打:右投右打
- 主な守備位置:内野手を中心にプレー
- プロ入り:1983年ドラフト4位で中日ドラゴンズに指名
- 現役引退:1996年
- 死去:2025年8月16日、60歳
- 長男:俳優の山田裕貴さん
| 時期 | 出来事 | 関係・補足 |
|---|---|---|
| 1965年6月3日 | 愛知県で生まれる | 後に中日ドラゴンズでプレーする内野手となる |
| 1983年 | 中日からドラフト4位指名 | 東邦高校からプロ野球の世界へ進む |
| 1984~1990年 | 中日ドラゴンズに在籍 | 俊足を生かしたプレーで経験を積む |
| 1991~1995年 | 広島東洋カープに在籍 | 1992年、1995年などに打撃面でも結果を残す |
| 1996年 | 中日に復帰し、現役引退 | 現役生活を終え、指導者の道へ進む |
| 1997~2004年 | 中日でコーチを歴任 | 打撃や守備走塁などの指導に携わる |
| 2011年、2015~2021年 | 広島でコーチを務める | 若手選手の育成や守備・走塁指導などを担当 |
| 2025年8月16日 | 60歳で死去 | 約4年間のがん闘病が、後の家族の公表で明らかになる |
| 2025年8月26日 | 裕貴さんが訃報を公表 | 親族代表として、父を支えた関係者やファンに感謝を伝える |
この年表から分かるのは、和利さんが現役選手としてだけでなく、引退後も長くプロ野球に関わってきた人物だということです。選手生活を終えた後も中日と広島の双方で指導経験を積み、球界を支えてきました。
なお、選手としての在籍期間と、実際に一軍公式戦へ出場した年度は同じではありません。年度別成績を見る際には、球団在籍年と出場記録を区別する必要があります。
【現役成績】中日ドラゴンズ・広島東洋カープで残した数字と実績
山田和利さんの現役成績は、NPBの公式記録で確認できます。通算成績は366試合出場、227安打、22本塁打、102打点、打率.262。派手な数字だけで評価される選手ではありませんが、複数の守備位置をこなし、出場機会を得たシーズンには打撃でも貢献しました。
中日時代は俊足を生かしたユーティリティー選手1984年にプロ入りした和利さんは、俊足を生かせる選手として期待されました。プロ野球関連の選手紹介記事では、100メートルを11秒6で走るスピードが評価されていたことも紹介されています。
中日時代の主な実績として挙げられるのが1988年です。この年は82試合に出場し、打率.268、2本塁打を記録。チームのリーグ優勝に貢献しました。レギュラーとして常に出場し続けるタイプではなかったものの、守備や走塁を含めた総合力が持ち味でした。
広島移籍後に打撃面でも存在感を発揮1991年に広島東洋カープへ移籍すると、和利さんは打撃でも結果を残していきます。1992年には93試合に出場し、75安打、8本塁打、29打点、打率.282を記録しました。
さらに1995年には94試合に出場し、82安打、12本塁打、53打点、打率.270をマーク。12本塁打と53打点は、広島時代の打撃面を語るうえで押さえておきたい数字です。
その後、1996年に中日へ復帰しましたが、同年限りで現役を引退しました。現役生活は長期間にわたるものではなかった一方、球団を移るなかで役割を変え、走力と打撃を生かしてチームに貢献した選手だったことが、公式成績から読み取れます。
通算成績で押さえたいポイント- 通算出場試合数:366試合
- 通算安打数:227安打
- 通算本塁打数:22本
- 通算打点:102打点
- 通算盗塁:21盗塁
- 通算打率:.262
これらは日本野球機構の個人年度別成績に基づく数字です。通算記録だけでなく、1988年の中日時代、1992年と1995年の広島時代を比較すると、和利さんがキャリアのなかで役割を変えながら力を発揮していたことが分かります。
【コーチ歴】山田和利は中日と広島でどんな指導をしていた?
山田和利さんの野球人生は、1996年の現役引退で終わったわけではありません。その翌年から中日ドラゴンズでコーチを務め、2004年まで打撃や守備走塁などの分野で選手を指導しました。
2005年以降は球団フロント側の仕事にも携わったとされ、2011年には広島東洋カープへ復帰。2012年から2014年は球団編成部に在籍し、2015年に現場へ戻りました。
広島では二軍から一軍まで指導経験を重ねる広島では、二軍の守備・走塁コーチをはじめ、一軍コーチなども経験しました。2018年から2020年には一軍の内野守備・走塁コーチを務め、その後は二軍の内野守備・走塁コーチとして若手選手の指導に携わっています。
2021年11月には、広島が山田コーチの退団を発表しました。これが、報道で確認できる球団での最後の指導歴です。
山田和利さんのコーチ歴は、中日での1997~2004年、広島での2011年および2015~2021年が中心です。選手としての経験だけでなく、現場での指導、球団編成など複数の立場からプロ野球に関わってきました。
現役時代の成績だけを見ると、通算366試合という数字が目に留まります。しかし、引退後も長年にわたって指導者として球団に貢献した点まで含めることで、和利さんのキャリアをより立体的に理解できます。
【親子の関係】山田裕貴の野球少年時代と父との思い出
山田裕貴さんは、父の現役時代の姿に憧れて野球を始めました。2023年5月に放送されたTBS系「日曜日の初耳学」などで、幼少期から父の背中を追いかけていたことを振り返っています。
しかし、父がプロ野球選手だったことは、裕貴さんにとって単純な憧れだけではありませんでした。自分も同じように活躍しなければならないという意識が強くなり、野球を楽しめなくなっていった時期があったといいます。
中学時代に味わった挫折と父への劣等感裕貴さんは小学3年生ごろから野球を始め、全国大会に出場するほどのチームでプレーしました。しかし、より強いチームに移った後はレギュラーになれず、中学時代に野球をやめる決断をします。
2021年のTBS系「A-Studio+」や2023年の「日曜日の初耳学」では、父がプロ野球選手であることを強く意識していた当時の心境を明かしました。試合で思うような結果を出せず、親に悔し涙を見られたくなくて、風呂場で一人泣いていたこともあったと報じられています。
父は野球を無理に続けさせたわけではありません。裕貴さん自身も、父から「やりたいことをやれ」という趣旨の言葉をかけられていたと振り返っています。一方で、自分からやると決めたことを途中でやめたことについては、父から厳しく叱られたとも語っています。
父の母校・東邦高校に進学した理由裕貴さんが進学したのは、父と同じ東邦高校でした。野球の名門として知られる高校ですが、裕貴さんは野球部には入らず、競技を続けない道を選びました。
高校3年生のとき、東邦高校が甲子園に出場し、裕貴さんはスタンドから試合を応援しました。その際、中学時代のチームメートが試合に出場する姿を見て、野球を途中で諦めた自分への悔しさがこみ上げ、涙が止まらなくなったと語っています。
この経験を通じて思い出したのが、父からかけられた「自分で決めたことは最後までやり続けろ」という言葉でした。父と同じ野球選手になる道は断念しても、次に自分で選んだ道は最後まで続けよう。そうした決意が、俳優を目指す原動力の一つになったといいます。
俳優になったきっかけは、父と共有した映画やドラマ裕貴さんが父との思い出として挙げているのは、野球だけではありません。2025年8月に報じられた日刊スポーツの取材記事では、幼いころ、父から野球を教えてもらうことはあまりなく、父との会話はテレビや映画の話が中心だったと振り返っています。
当時の裕貴さんは、プロ野球選手の父がアマチュアに野球を教えないというルールを家族にも守っていたのだと、後になって理解したといいます。父への憧れと、野球を通じて生まれた距離感。その一方で、テレビや映画を一緒に楽しむ時間が、芸能界へ関心を向けるきっかけになりました。
俳優になった後も、父との関係は続いていました。裕貴さんは、父が自分の出演作品をよく見ており、演技についても率直な意見を伝えてくれたと明かしています。作品を見てもらえるうれしさと、身内だからこそ感じる厳しさが同居していたようです。
父の忘れられないプレーは、桑田真澄さんからの2打席連続本塁打2025年9月に放送された日本テレビ系「しゃべくり007」では、裕貴さんが父の現役時代の思い出を語りました。印象に残っているプレーとして挙げたのが、二軍のオールスター戦で桑田真澄さんから2打席連続本塁打を放ったことです。
このエピソードは、父を単に「有名な元プロ野球選手」として紹介するだけでは伝わらない、息子から見た選手としての姿を示しています。なお、同番組の収録は和利さんの死去公表前に行われたと報じられており、放送時期と収録時期を混同しないことも大切です。
裕貴さんにとって父は、追いかける対象であり、時には自分との差を意識させる存在でもありました。そして俳優になってからは、自分の仕事を見守り、演技に意見をくれる存在へと、その関係は変化していったのです。
【訃報の経緯】山田和利の死去はいつ?がん闘病と2026年最新情報
山田和利さんの死去が公表されたのは、2025年8月26日です。裕貴さんは親族代表として、父が8月16日に60歳で亡くなったことを報告しました。死去から公表まで10日間がありましたが、本人の意思を尊重し、闘病については公にしていなかったと説明しています。
約4年間のがん闘病を家族が公表スポニチや日刊スポーツ、TBS NEWS DIGなどの報道によると、和利さんは約4年前にがんを患い、闘病生活を送っていました。具体的ながんの種類や詳しい治療経過については、公表された情報からは分かりません。
裕貴さんが公表したコメントには、父を支えてきた球団関係者、球団OB、ファンへの感謝がつづられていました。
「私たち家族が今日までやってこられたのは、父がプロ野球の世界で懸命に働き、支えてくれたおかげです。」
この言葉には、父の仕事が家族の生活を支えてきたことへの感謝と、プロ野球界で父を支えてくれた人々への思いが表れています。
葬儀は近親者のみで執り行われた訃報の公表時、裕貴さんは葬儀を近親者のみで執り行ったことも伝えました。供花や香典についても辞退する意向を示しています。
闘病を公にしなかったのは、故人の意思によるものだったと説明されています。家族はその意向を尊重し、死去の公表に際して、これまで支えてくれた関係者への感謝を伝えました。
2026年10月時点で分かっていること2026年10月時点で、山田和利さんについて公表されている主要な事実は、2025年8月16日に60歳で死去したこと、約4年間にわたりがんと闘っていたこと、そして葬儀が近親者のみで執り行われたことです。
訃報後には、裕貴さんがテレビ番組で父との思い出を語った内容も報じられています。2025年9月放送の「しゃべくり007」では、父の現役時代のプレーや、野球を通じた親子の記憶が紹介されました。
一方、がんの種類、具体的な死因、最期の状況などについては、家族から詳細な説明が公表されたわけではありません。闘病していた事実と、病状や死因の詳細を区別して理解する必要があります。
また、和利さんが最後に広島のコーチを務めたのは2021年までです。2025年の訃報を受けて過去のプロフィールが再び検索されるなかで、現役時代やコーチ時代の情報が現在の活動状況と混同されないよう注意したいところです。
【プロの結論】山田裕貴の父を知るうえで押さえたい3つの視点
山田裕貴さんの父・山田和利さんについて調べる際は、単に「有名俳優の父親」という切り口だけでなく、プロ野球選手としての実績、指導者としてのキャリア、そして親子の関係を分けて見ることが重要です。
第一に、和利さんは中日と広島の両球団でプレーし、通算366試合、22本塁打、102打点を記録した元プロ野球選手です。1996年の現役引退後もコーチとして球界に残り、2000年代前半の中日、2010年代から2021年までの広島で指導経験を重ねました。
第二に、裕貴さんが父から受けた影響は、野球を続けることだけにとどまりません。父への憧れから野球を始め、競技を断念した挫折を経て、自分で選んだ俳優の道へ進みました。父と同じ職業に就くことが親子関係の唯一の形ではなく、父の言葉を自分の人生に生かした点に、裕貴さんの歩みの特徴があります。
第三に、2025年の訃報に関する情報は、発表された事実と、公開されていない私的な情報を区別して受け止めることが大切です。死去の日付や年齢、約4年間のがん闘病は公表されていますが、病状の詳細や最期の状況まで明らかになっているわけではありません。
人物記事やネット上の情報を確認する際には、NPBの公式記録で選手成績を、球団発表や報道各社の記事でコーチ歴や訃報を、本人が出演した番組の報道で親子のエピソードを確認するのが確実です。異なる種類の情報を一つの噂としてまとめず、それぞれの出典と内容を照らし合わせることが、人物像を正確に理解するための判断基準になります。
【山田裕貴の父】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:山田裕貴の父親は誰ですか?
A1:父親は、元プロ野球選手の山田和利さんです。中日ドラゴンズと広島東洋カープで内野手などとしてプレーし、現役引退後も両球団でコーチを務めました。
Q2:山田和利さんはいつ、何歳で亡くなりましたか?
A2:2025年8月16日に60歳で亡くなりました。息子の山田裕貴さんが同月26日に訃報を公表し、約4年前からがんの闘病を続けていたことも明らかにしました。
Q3:山田和利さんの現役時代の成績は?
A3:NPBの公式記録による通算成績は、366試合出場、227安打、22本塁打、102打点、21盗塁、打率.262です。広島時代の1995年には12本塁打、53打点を記録しました。
Q4:山田裕貴さんは父親から野球を教わっていたのですか?
A4:裕貴さんは、子どものころに父から野球を教えてもらうことはあまりなかったと語っています。父がプロ野球選手はアマチュアに野球を教えないという当時のルールを家族にも守っていたのだと、後になって理解したそうです。
Q5:山田和利さんの死因は公表されていますか?
A5:約4年間にわたりがんの闘病をしていたことは公表されていますが、がんの種類や詳しい死因、最期の状況については、家族から詳細な説明は公表されていません。
山田裕貴さんの父・山田和利さんは、東邦高校から中日ドラゴンズに入団し、広島東洋カープでも活躍した元プロ野球選手です。通算366試合に出場し、現役引退後も両球団でコーチを務め、選手としても指導者としてもプロ野球界を支えてきました。
2025年8月16日、和利さんは60歳で亡くなりました。約4年間のがん闘病を続けていたことは、同月26日に裕貴さんが訃報を公表した際に明らかになっています。2026年10月時点で、病状や死因の詳細について新たな公表情報は限られています。
一方、裕貴さんが語ってきた父との思い出からは、野球選手としての父への憧れ、競技を断念した悔しさ、そして俳優として自分の人生を歩む決意が伝わってきます。父が出演作品を見守り、演技にも意見を伝えていたというエピソードは、親子の関係が野球だけで終わらなかったことを示しています。
山田和利さんの人物像を知るには、現役成績やコーチ歴だけでなく、裕貴さんが公の場で語った親子の記憶にも目を向ける必要があります。プロ野球選手として歩んだ父の人生と、その背中を追いながら自分の道を選んだ息子の人生。その両方を知ることで、山田裕貴さんが語る父への感謝の意味も、より深く理解できます。