アントニオ猪木さんは、2022年10月1日午前7時40分、心不全のため79歳で亡くなりました。死因として公表されたのは心不全で、その背景には2019年秋に発症した心アミロイドーシスという難病がありました。新日本プロレスの創設者、モハメド・アリとの歴史的な異種格闘技戦、参議院議員としての外交活動など、リングの内外で大きな足跡を残した人物です。
2026年10月現在、逝去から4年が経過しようとしています。晩年に公開された闘病の記録や、亡くなる10日前に収録されたインタビューからは、強さだけではない猪木さんの人間像も伝わってきます。死去までの経緯、最期の言葉、ジャイアント馬場さんとの関係、そして現在に受け継がれる功績を、公式発表や報道記録をもとに振り返ります。
【死去はいつ?】アントニオ猪木さんの死因・享年79歳の事実

アントニオ猪木さんの訃報は、2022年10月1日、マネジメント会社の猪木元気工場から発表されました。本名は猪木寛至(いのき・かんじ)。1943年2月20日生まれで、亡くなったときの年齢は79歳でした。
発表された死因は心不全です。猪木元気工場の発表を伝えたスポーツ紙各社は、2019年から闘病していた心アミロイドーシスが原因となったことも報じています。つまり、心不全が亡くなった際の直接的な死因として公表され、心アミロイドーシスがその背景にあったという関係です。
長年にわたり「燃える闘魂」の異名で知られた猪木さんは、プロレスラーとしての引退後も、政治活動や格闘技のプロデュースなどに取り組んできました。晩年には難病と闘う姿を自ら発信し、病状が進行してからも公の場に姿を見せていました。
訃報を受け、関係者やファンから追悼の声が寄せられました。葬儀は遺族の意向により家族葬で執り行われ、その後、2023年3月7日には新日本プロレスと猪木元気工場が主催する「アントニオ猪木 お別れの会」が両国国技館で開催されました。
【死因を詳しく解説】心アミロイドーシスと闘病生活の経緯
心アミロイドーシスとはどのような病気なのか心アミロイドーシスは、アミロイドと呼ばれる異常なたんぱく質が心臓の組織に沈着し、心臓の働きに障害をもたらす病気です。心臓の筋肉が硬くなり、血液を受け入れたり送り出したりする機能が低下すると、心不全や不整脈などにつながる場合があります。
心アミロイドーシスは、アミロイドーシスという疾患群のうち、心臓に病変が生じるものです。日本循環器学会の診療ガイドラインや慶應義塾大学病院の医療情報でも、心臓へのアミロイドの沈着が心機能の異常を引き起こすことが説明されています。病型によって経過や治療が異なり、専門的な診断と管理が必要です。
猪木さんの場合、猪木元気工場の発表を報じたスポーツニッポンなどによると、2019年秋に発症し、2020年7月に病気を公表しました。闘病中は入院やリハビリを経験しながら、自身の体調や日々の様子を動画などで伝えていました。
病気の公表から逝去まで猪木さんの闘病が広く知られるようになったのは、病名を公表し、自身の公式YouTubeチャンネルなどで療養生活を発信するようになってからです。2021年には腰の治療などで入院し、リハビリの様子も公開しました。病状が進むにつれて体力の低下が目立つようになりましたが、発信を続ける姿勢は変わりませんでした。
2022年8月28日には、日本テレビ系の「24時間テレビ45」に生出演。車いすでステージに登場し、代名詞となった「元気ですかー!」の掛け声を披露しました。以前のような力強い姿とは異なっていても、ファンの前に立ち、言葉を届けようとする姿が注目されました。
そして9月21日には、亡くなる10日前となるインタビューを収録。猪木さんは病気と向き合う心境や、闘病する姿を公開する理由について語りました。この映像は、2022年10月1日の訃報と同じ日に公式チャンネルで公開され、最後のメッセージとして多くの人に受け止められました。
闘病中の姿を公開したことは、単に著名人の病状を伝えるだけにとどまりませんでした。病気によって身体が衰えていく現実を隠さずに見せることで、強い人にも弱さがあり、病気と向き合う過程そのものにも意味があることを伝えたのです。
【生涯年表】新日本プロレス創設から参議院議員までの歩み
アントニオ猪木さんの生涯は、プロレス界だけに収まりません。力道山の系譜を受け継ぐレスラーとして頭角を現し、独自の団体を立ち上げ、世界的な格闘家と対戦。さらに政界へ進出し、国際交流にも取り組みました。猪木元気工場の公式年表や新日本プロレスの会社沿革などから、主な転換点を整理します。
| 時期 | 出来事 | 関係する人物・意義 |
|---|---|---|
| 1943年2月20日 | 神奈川県横浜市で誕生 | 本名は猪木寛至 |
| 1960年 | 日本プロレスに入門 | ジャイアント馬場さんと同時期に入門会見 |
| 1967年 | ジャイアント馬場さんとのタッグが実現 | 「BI砲」として人気を集める |
| 1972年1月 | 新日本プロレスを設立 | 初代社長に就任し、同年3月に旗揚げ |
| 1976年6月26日 | モハメド・アリ戦 | 日本武道館で15ラウンドを戦い、引き分け |
| 1989年 | 参議院議員に初当選 | スポーツ平和党から出馬 |
| 1990年 | イラクで「平和の祭典」を開催 | 湾岸危機下の日本人人質解放に向けて活動 |
| 1998年4月4日 | 東京ドームで引退試合 | プロレスラーとしての現役生活に区切り |
| 2013年 | 参議院議員として国政復帰 | 日本維新の会から出馬し当選 |
| 2020年 | 心アミロイドーシスの闘病を公表 | 動画などを通じて療養生活を発信 |
| 2022年10月1日 | 心不全のため逝去 | 享年79歳 |
この年表から読み取れるのは、猪木さんが一つの分野で成功した後も、新しい舞台に挑み続けたことです。レスラーとしての実績を土台に団体経営へ進み、国際的な対戦を実現し、さらに政治の世界にも活動範囲を広げました。
とりわけ新日本プロレスの設立は、その後の日本のプロレス界に大きな影響を与えた転換点でした。新日本プロレスの公式沿革によれば、会社は1972年1月に設立され、3月に旗揚げ戦を開催。猪木さんは初代社長として団体の立ち上げを担いました。
【プロレス界への功績】ジャイアント馬場との関係とモハメド・アリ戦
ジャイアント馬場との共闘と、それぞれの道アントニオ猪木さんとジャイアント馬場さんは、日本プロレス史を語るうえで欠かせない二人です。1960年に日本プロレスへの入門を経験し、1967年にはタッグを組みました。このコンビは「BI砲」と呼ばれ、当時のプロレス界を代表する存在として人気を集めました。
その後、猪木さんは新日本プロレスを設立し、馬場さんは全日本プロレスを率いるなど、二人は異なる団体を中心に活動するようになります。両者は日本のプロレスを支えたライバルとして語られますが、初期には共にリングに立ったパートナーでもありました。単なる対立関係として捉えると、二人が築いた歴史の重要な部分を見落とすことになります。
1976年のモハメド・アリ戦は何が画期的だったのか猪木さんの国際的な知名度を高めた出来事の一つが、1976年6月26日に日本武道館で行われたモハメド・アリとの異種格闘技戦です。当時、アリは世界的なボクシング王者として知られ、猪木さんとの対戦はプロレスとボクシングの世界が正面から交わる大きな話題となりました。
試合は15ラウンドを戦い、引き分けに終わりました。ただし、試合前のルール交渉によって猪木さんが使える技には厳しい制約があり、試合内容については当時、否定的な評価もありました。後年には、異なる格闘技の選手がルールを調整して戦う試みとして、総合格闘技の源流の一つに位置づける見方も広がっています。
この一戦の意義は、勝敗だけでは測れません。プロレスを国内の興行にとどめず、世界的なスポーツスターとの対戦によって国際的な関心を集めたこと、そして異なる競技の強さをどのように比較するかという問いを広く投げかけたことにあります。
新日本プロレス創設が残したもの新日本プロレスは、猪木さんが理想とするプロレスを追求するために設立した団体です。公式沿革には、設立当初の猪木さんが初代社長を務めたことが記録されています。旗揚げ後はテレビ中継や大規模会場への進出を通じて、団体として成長していきました。
猪木さんの功績は、自ら試合をすることだけではなく、選手が活躍する舞台をつくり、プロレスを継続的な興行・事業として発展させた点にもあります。レスラーとしてのカリスマ性と、団体を立ち上げる経営者としての行動力が結びついたことが、後世に残る影響の大きさにつながっています。
【参議院議員としての活動】スポーツ平和党と国際交流
猪木さんは1989年、スポーツ平和党から参議院議員選挙に出馬して初当選しました。プロレスラーから国会議員へ転身したことは大きな話題となり、スポーツを通じた国際交流や平和への貢献を掲げて活動しました。
政治家としての代表的な出来事が、1990年の湾岸危機下におけるイラク訪問です。当時、イラクには日本人を含む外国人が拘束される状況が生じていました。猪木さんは現地で「平和の祭典」と題したイベントを開催し、日本人の人質解放に向けた活動を行いました。猪木元気工場の年表には、イベント開催後の1990年12月7日に全人質の解放が決定されたことが記録されています。
この活動は、猪木さんが持つ知名度や独自の人脈を政治・外交の場で活用した事例です。一方で、外交上の成果を一人の働きだけに帰することはできず、当時の国際情勢や各方面の交渉も含めて理解する必要があります。
猪木さんは1995年の参議院選挙で落選した後、2013年に日本維新の会から出馬して国政に復帰しました。2019年には政界を退きました。議員としての評価にはさまざまな見方がありますが、スポーツと国際交流を結びつけようとした活動は、プロレスラーとしての経歴とは異なる側面を示しています。
また、北朝鮮とのスポーツ交流にも取り組み、プロレス興行などを通じた接点を重ねました。こうした活動は、スポーツを外交の窓口として使おうとする猪木さん独自の発想を表す一方、その手法や政治的な評価については、競技上の功績とは分けて考えることが大切です。
【最期の言葉と闘病生活】猪木さんが最後まで伝えようとしたこと
亡くなる10日前に収録されたインタビュー猪木さんの「最期の言葉」として知られる映像は、2022年9月21日に収録されたインタビューです。猪木さんの公式YouTubeチャンネルで、逝去当日の10月1日に公開されました。亡くなる直前の肉声を収めた映像として、多くのファンが注目しました。
動画の中で猪木さんは、病気によって体力が落ちていく自身の姿を見せることについて、隠さずに伝える考えを語りました。そして、病気と向き合った経験を振り返り、次のような言葉を残しています。
「人がやらない、できないことをすべてやらせてもらって。ありがとう。最後はこの言葉です」
この言葉は、亡くなる前に収録されたインタビューの中で語られたものです。逝去の瞬間に発した言葉が記録されたという意味ではありませんが、本人がファンに向けて残した最後期のメッセージとして、強い印象を残しました。
なぜ闘病の姿を公開し続けたのか2022年8月の「24時間テレビ45」では、猪木さんが病気と向き合う姿や、闘病生活を公開する理由が紹介されました。日刊スポーツやマイナビニュースなどの報道によると、猪木さんは、以前のように動けない姿であっても、それがありのままの自分なのだという考えを語っています。
プロレスラーとしての猪木さんは、強さや闘志を象徴する存在でした。しかし晩年には、病気によって身体が衰える様子も公開しました。そこには、強い姿だけを見せるのではなく、弱さを含めた現実を伝えようとする姿勢がありました。
闘病を発信することは、病気が治ることを約束するものではありません。それでも、病気を抱えた人が経験する苦しさや、日々の生活を続ける難しさを社会に伝えるきっかけにはなります。猪木さんの発信は、スポーツ選手の引退後の生き方や、著名人が自らの病状を語る意味についても考えさせるものでした。
最後まで公の場に姿を見せ、ファンに言葉を届けたことは、リング上で見せてきた闘志とは異なる形の強さを伝えています。「燃える闘魂」という呼び名は、試合中の姿だけでなく、病気と向き合う晩年の姿にも重ねられるようになりました。
【2026年現在】猪木元気工場と追悼、受け継がれる功績
2026年10月現在、アントニオ猪木さん本人は2022年10月1日に逝去しており、本人の新たな活動や近況があるわけではありません。現在の「アントニオ猪木」を知るうえでは、本人が残した映像・記録と、関係団体が伝えている功績をたどることが中心になります。
猪木元気工場の公式年表には、プロレスラーとしての歩み、新日本プロレスの設立、アリ戦、政界での活動、闘病、逝去までの経緯がまとめられています。また、新日本プロレスの公式会社沿革には、猪木さんが創設時の初代社長だったことが記録されています。こうした資料は、個人の記憶や印象だけでなく、活動の歴史を確認する手がかりになります。
追悼の場としては、2022年12月28日に両国国技館で開催された格闘技イベント「INOKI BOM-BA-YE×巌流島」で追悼セレモニーが行われ、2023年3月7日には「アントニオ猪木 お別れの会」が開催されました。後者は新日本プロレスと猪木元気工場が主催し、関係者やファンが集って猪木さんをしのびました。
猪木さんの功績は、リングでの勝利数だけでは評価しきれません。新日本プロレスという団体を立ち上げたこと、モハメド・アリとの対戦によって異種格闘技の可能性を広げたこと、スポーツを通じた国際交流を試みたこと、そして闘病中の姿を公開したこと。それぞれが異なる分野に影響を残しています。
【プロの結論】猪木さんの功績をどう評価すべきかアントニオ猪木さんの生涯を振り返る際は、少なくとも三つの視点を分けて考えると、その全体像が見えやすくなります。
- 競技者として:リング上での存在感に加え、モハメド・アリ戦などを通じて、プロレスと他競技の境界を越える試みを行った。
- 事業家・政治家として:新日本プロレスを創設し、参議院議員として国際交流や外交活動にも取り組んだ。
- 一人の人間として:晩年の闘病を公開し、衰えや弱さを隠さずに生きる姿を伝えた。
これらは互いに関連していますが、同じ基準だけで評価できるものではありません。プロレスの歴史に残る功績と、政治活動に対する評価は区別する必要があります。そのうえで、既存の枠にとらわれず、新しい舞台を切り開こうとした姿勢は、猪木さんの生涯を貫く特徴でした。
2026年に改めて注目したいのは、強さの象徴だった人物が、晩年には自らの弱さも見せたという点です。現役時代の試合映像や「元気ですかー!」の掛け声だけでなく、病床で語った言葉にも目を向けることで、猪木さんの人物像はより立体的に見えてきます。
【アントニオ猪木の死去】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:アントニオ猪木さんの死因は何ですか?
A1:2022年10月1日に心不全のため亡くなりました。猪木元気工場の発表では、背景に心アミロイドーシスがあったとされています。
Q2:アントニオ猪木さんは何歳で亡くなりましたか?
A2:1943年2月20日生まれで、2022年10月1日に逝去した際の享年は79歳です。
Q3:アントニオ猪木さんの最期の言葉は何ですか?
A3:亡くなる10日前の2022年9月21日に収録されたインタビューで、「人がやらない、できないことをすべてやらせてもらって。ありがとう。最後はこの言葉です」と語っています。これは逝去当日に公開された映像に収録された言葉で、亡くなる瞬間の発言を意味するものではありません。
アントニオ猪木さんは、2022年10月1日、心アミロイドーシスを背景とする心不全のため79歳で逝去しました。新日本プロレスの創設者として日本のプロレス界を牽引し、モハメド・アリ戦によって異種格闘技の可能性を示し、参議院議員として国際交流にも取り組みました。
晩年の闘病生活と、亡くなる10日前に収録されたインタビューは、強さだけではない猪木さんの人間像を伝えています。2026年現在も、公式年表やプロレス界の記録、公開映像を通じて、その歩みを振り返ることができます。
猪木さんの生涯を理解するうえで大切なのは、伝説的なレスラーという一面だけにとどまらず、団体を立ち上げた挑戦者、国際交流に取り組んだ政治家、そして病気と向き合う姿を公開した一人の人間として見ることです。その多面的な歩みこそが、逝去から年月を経てもなお語り継がれる理由の一つです。