貴ノ花利彰(たかのはな としあき)は、「角界のプリンス」と呼ばれ、1970年代の大相撲人気を支えた元大関です。本名は花田満。軽量ながら粘り強く、正攻法の取り口で横綱にも迫った人気力士であり、引退後は師匠として若乃花・貴乃花の兄弟横綱を育て上げました。2005年5月30日に55歳で亡くなりましたが、その競技実績と指導者としての功績は、現在も相撲史を振り返るうえで欠かせないものです。
日本相撲協会の公式プロフィールによると、貴ノ花の生涯戦歴は726勝490敗58休(95場所)、幕内最高優勝は2回、大関在位は50場所です。この記事では、読み方や本名、1972年の大関昇進、1981年の引退理由、妻・藤田紀子や息子たちとの家族関係、藤島部屋・二子山部屋での指導者人生まで、2026年時点で押さえておきたい事実を整理します。
【読み方・本名・現在】貴ノ花利彰の基本プロフィール

貴ノ花利彰の読み方は「たかのはな としあき」です。四股名の「貴ノ花」は、息子の四股名として知られる「貴乃花」と漢字が異なります。父親の貴ノ花利彰と、次男で第65代横綱となった貴乃花光司は、名前が似ているものの別人です。
本名は花田満(はなだ みつる)。1950年2月19日、青森県弘前市に生まれました。実兄は第45代横綱の初代若乃花幹士で、相撲界との縁は兄の存在とも深く結び付いています。日本相撲協会の公式プロフィールでは、身長183センチ、最高位は大関と記録されています。
貴ノ花が生まれた1950年から大相撲の土俵を去る1981年まで、日本社会は高度経済成長を経て大きく変化しました。その間、テレビ中継を通じて人気力士の存在感が広く伝わるようになり、端正な顔立ちと粘り強い相撲を持ち味とした貴ノ花も、相撲ファン以外から注目を集める存在となりました。
2026年現在、貴ノ花利彰は存命ではありません。没年月日は2005年5月30日で、享年55。元大関としての競技実績に加え、若乃花・貴乃花の父、そして複数の有力力士を育てた師匠として記憶されています。
【生涯成績726勝490敗58休】幕内優勝2回と大関としての功績
貴ノ花の現役時代を評価するうえで、まず押さえたいのが通算成績です。日本相撲協会の公式プロフィールに掲載されている生涯戦歴は726勝490敗58休。幕内では578勝406敗58休を記録しました。幕内在位は70場所、大関在位は50場所に及びます。
幕内最高優勝は2回。1975年3月場所に13勝2敗で初優勝を飾り、同年9月場所にも優勝しました。横綱への昇進は実現しませんでしたが、最高位が大関でありながら2度の幕内優勝を成し遂げたことは、現役時代を象徴する実績です。
1975年3月場所の初優勝は、貴ノ花の人気を語るうえでも大きな節目でした。集英社のスポーツメディア「Sportiva」による回顧記事では、優勝決定時に会場で座布団が舞い上がるほどファンが熱狂した様子が紹介されています。勝利を期待される人気力士であると同時に、その期待に応える姿そのものが人々の心をつかんでいました。
受賞歴も充実しています。日本相撲協会の公式記録では、殊勲賞3回、敢闘賞2回、技能賞4回、金星1個。幕内優勝だけでなく、横綱を破る実力や相撲内容も評価されていました。
特に注目したいのは、勝ち星だけでは表せない相撲の特徴です。貴ノ花は大型力士がひしめく土俵のなかで、比較的軽量な体格を生かし、粘り腰や上手投げなどを武器に戦いました。得意技として日本相撲協会が挙げるのは、左四つ、吊り、上手投げです。体格差を技術と粘りで補う取り口が、彼の個性を形作っていました。
【1972年の大関昇進から1981年の引退まで】転機と引退理由
貴ノ花は1965年5月場所に初土俵を踏み、1968年11月場所に新入幕を果たしました。当時18歳8カ月での入幕は、当時の最年少記録としても注目を集めました。若くして幕内に定着し、関脇などの三役を経て、1972年秋場所後に大関昇進が決まります。新大関として番付に載ったのは1972年11月場所でした。
大関昇進後は、輪島、高見山、北の湖らとしのぎを削りました。1975年に幕内優勝を2回達成した一方、期待された横綱昇進には届きませんでした。長い大関在位のなかでは、けがや体調面の負担もキャリアを左右する要因となり、優勝を重ねて綱取りを実現することはできませんでした。
引退の直接的な経緯として知られるのが、1981年1月場所です。Sportivaの回顧記事によると、貴ノ花は同場所6日目に蔵玉錦に敗れた後、土俵を去る決意を固め、翌朝の1981年1月17日に引退を表明しました。大関在位50場所という長い現役生活に幕を下ろしたのです。
当時の引退を振り返る記事では、本人が人気の重圧について語った言葉も伝えられています。
「人気は負担だった」
この言葉は、貴ノ花が単に勝ち星を求められる力士ではなく、ファンの期待を背負う存在でもあったことを示しています。引退理由を一つの敗戦だけに限定するのは適切ではありません。横綱に届かなかった悔しさ、けがなどによる負担、長年にわたって人気を担ってきた重圧が重なった時期に、現役生活の終わりを迎えたと捉えるのが実態に近いでしょう。
なお、引退したのは1981年1月場所です。引退後すぐに相撲界を離れたわけではなく、親方として弟子を育てる新たな人生へと進みました。
【角界のプリンスと呼ばれた理由】相撲の実力と人気の背景
貴ノ花を語るときに欠かせない呼び名が「角界のプリンス」です。講談社の『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』でも、この呼称と、軽量ながら抜群の粘り腰を持ち味とした力士像が紹介されています。
人気の背景には、端正な顔立ちや若々しい雰囲気だけでなく、土俵上で見せる粘り強さがありました。大きな体格を持つ力士が有利になりやすい相撲で、貴ノ花は簡単には崩れない相撲を展開し、相手に立ち向かいました。体格差を覆そうとする姿勢は、勝敗以上に観客の感情を動かしたのです。
また、初代若乃花の弟という出自も、貴ノ花の注目度を高めた要素の一つでした。ただし、兄の知名度だけで人気を得たわけではありません。早い段階で幕内に定着し、大関に昇進し、2度の優勝を実現した実績があったからこそ、「角界のプリンス」という呼称が広く定着したと考えられます。
一方で、人気力士であることと、横綱に昇進することは別の評価軸です。横綱昇進には成績の継続性など厳しい条件が大切です。貴ノ花は優勝2回という実績を残しながらも横綱にはなりませんでしたが、そのことだけで力士としての価値が決まるわけではありません。大関として50場所を務めたこと自体、長期にわたり幕内上位で戦い続けた証しです。
【家族構成と関係者一覧】妻・藤田紀子、息子の若乃花・貴乃花、兄の初代若乃花
貴ノ花利彰の家族構成で広く知られているのは、妻の藤田紀子、長男の若乃花、次男の貴乃花、そして実兄の初代若乃花です。本人が引退後に師匠となった藤島部屋・二子山部屋も、家族と相撲界のつながりを理解するうえで重要な存在です。
妻の藤田紀子は女優として知られ、貴ノ花とは1970年に結婚しました。2人の間には長男の花田虎上(元横綱・若乃花勝)と、次男の貴乃花光司(元横綱・貴乃花)が生まれています。夫婦は2001年に離婚しました。
実兄の初代若乃花幹士は、貴ノ花が相撲界に入るきっかけとなった人物です。貴ノ花は兄が関わる二子山部屋に入門し、兄の名声に続く形で自身の力士人生を築きました。その後、貴ノ花自身も部屋を率いる立場となり、息子2人を横綱へと育てています。
| 人物・組織 | 貴ノ花との関係 | 主な事実・役割 |
|---|---|---|
| 初代若乃花幹士 | 実兄 | 第45代横綱。貴ノ花が相撲界に入門するうえで重要な存在となった。 |
| 藤田紀子 | 妻・元妻 | 1970年に結婚。2人の息子をもうけ、2001年に離婚。 |
| 花田虎上(若乃花勝) | 長男 | 第66代横綱・若乃花として活躍した元力士。 |
| 貴乃花光司 | 次男 | 第65代横綱。2004年に父から部屋を継承した。 |
| 藤島部屋 | 引退後に創設した相撲部屋 | 1982年2月に創設。若乃花・貴乃花兄弟らを育てる基盤となった。 |
| 二子山部屋 | 師匠として率いた相撲部屋 | 1993年に藤島部屋との統合・改称を経て、二子山部屋を率いた。 |
この関係図から見えてくるのは、花田家と相撲部屋の歴史が密接につながっていたことです。兄から弟へ、さらに父から息子へと、家族の中で相撲界との関係が受け継がれていきました。ただし、家族であることと、個々の力士が土俵で残した実績は分けて評価する必要があります。貴ノ花自身も、息子たちとは異なる時代に大関として独自の成績を残した人物です。
【引退後の指導者人生】藤島部屋から二子山部屋へ、後進を育てた功績
1981年に引退した貴ノ花は、親方として相撲界に残りました。1982年2月には藤島部屋を創設し、独立した師匠として弟子の育成を始めます。ベースボール・マガジン社の相撲回顧記事では、この部屋から横綱の貴乃花・若乃花、大関の貴ノ浪、関脇の安芸乃島、貴闘力らが育ったことが紹介されています。
現役時代の貴ノ花は、横綱昇進こそ果たせませんでした。しかし、指導者としては、のちに横綱となる2人の息子を含む多くの関取を育てました。自身が得意とした粘り強い相撲の経験だけでなく、力士を育てる組織を築いた点も、彼の功績を語るうえで欠かせない。
1993年2月には、兄の初代若乃花が率いていた二子山部屋との統合・改称を経て、二子山部屋の師匠となりました。これにより、兄弟の縁と相撲部屋の歴史が再び交わることになります。藤島部屋から二子山部屋へと続く流れは、1990年代の大相撲を支えた有力力士たちの育成基盤となりました。
さらに2004年2月には、二男の貴乃花光司に部屋を継承。貴ノ花は日本相撲協会の業務にも携わり、現役引退後も相撲界を支える役割を担いました。翌2005年5月30日、口腔底がんのため55歳で死去。指導者としての仕事を続けるなかで、その生涯を閉じました。
貴ノ花の歩みを理解するには、現役時代の成績と、引退後の育成実績を分けて見ることが大切です。大関としての726勝、幕内優勝2回という数字に加え、藤島部屋・二子山部屋を通じて次世代の横綱や三役力士を育てたことが、相撲界に残したもう一つの大きな足跡です。
【プロの結論】勝ち星だけでは測れない貴ノ花利彰の価値
貴ノ花利彰の評価を考える際には、3つの視点が欠かせない。第一に、726勝490敗58休という生涯成績と幕内優勝2回に示される競技力。第二に、軽量ながら粘り強く戦う取り口と「角界のプリンス」と呼ばれた人気。第三に、引退後に藤島部屋を創設し、若乃花・貴乃花をはじめとする力士を育てた指導者としての実績です。
貴ノ花は横綱にはなりませんでした。しかし、大関在位50場所という長期にわたる実績を残し、2度の幕内優勝を達成しています。横綱になれなかったことだけを取り上げて評価を下げるのは、競技者としての継続性や、当時の土俵で果たした役割を見落とすことにつながります。
また、息子2人が横綱になったことで、父親としての貴ノ花が広く知られるようになりましたが、彼自身の功績は親族関係だけで説明できません。大関としての長い現役生活と、師匠としての育成実績を合わせて見ることで、相撲史における貴ノ花の存在感がより明確になります。
【貴ノ花利彰に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:貴ノ花利彰の読み方と本名は何ですか?
A1:読み方は「たかのはな としあき」です。本名は花田満(はなだ みつる)。1950年2月19日生まれで、青森県弘前市出身の元大関です。
Q2:貴ノ花利彰の引退理由は何ですか?
A2:1981年1月場所中の敗戦を経て引退を決意し、1月17日に引退を表明しました。けがなどによる負担や横綱昇進に届かなかったことに加え、本人が人気の重圧について語ったことも知られています。
Q3:貴ノ花利彰は2026年現在も存命ですか?
A3:いいえ。2005年5月30日に口腔底がんのため55歳で亡くなりました。2026年現在は故人ですが、大関としての実績と指導者としての功績は相撲史に残っています。
貴ノ花利彰は、本名を花田満といい、1972年に大関へ昇進した元力士です。生涯成績726勝490敗58休、幕内優勝2回という実績を残し、「角界のプリンス」と呼ばれるほどの人気を集めました。1981年に引退した後は藤島部屋を創設し、二子山部屋を率いて、息子の若乃花・貴乃花をはじめとする有力力士を育成しました。
2005年5月30日に55歳で亡くなった貴ノ花の人生には、大関としての競技力、人気力士として背負った期待、そして指導者として次世代へ受け継いだ功績が刻まれています。横綱昇進の有無だけで評価するのではなく、長い現役生活と部屋を通じた育成の両面から見ることが、貴ノ花利彰という人物を理解するうえでの重要な視点です。